紀行

石川啄木「雪中行」真冬の函館本線を行く(駅弁「海鮮えぞ賞味」)

えぞ海鮮賞味

札幌旭川特急ぶらり旅

「汽笛が鳴って汽車はまた動き出した。札幌より彼方は自分の未だかつて足を入れた事のない所である」1月19日、小樽の街を追われるようにして、石川啄木は遠い釧路へと向かう旅に出た。今から111年前の1908年のことである。真冬の列車の中で、啄木は一体何を考えていたのだろうか。漂白の歌人になったつもりで、朝一番の札幌発旭川行き特急列車に飛び乗った。札幌旭川特急ぶらり旅である。たまには札幌を離れて、こんな文学散歩も悪くない。

名物の煉瓦餅を買う気にもなれぬ

「白石厚別を過ぎて次は野幌。睡眠不足で何かしら疲労を覚えて居る身は、名物の煉瓦餅を買う気にもなれぬ。江別も過ぎた。幌向も過ぎた」旭川行きの特急ライラック1号は、111年前に啄木が旅したときと同じように、次々と小さな駅を通り過ぎていく。もっとも啄木の時代には各駅停車の列車だったに違いないが。現在も健在の名物煉瓦餅を買おうにも、特急は容赦なく江別駅を通り過ぎていく。停車駅で列車の窓を開けて弁当屋を呼ぶ光景を知る人も、今では少なくなってしまった。

まだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる

「右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎を点綴した冬の大原野は、そぞろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる」と啄木が書いているように、列車は大雪原の中を疾走していく。考えようによっては異国ロシアの風景だと思えないこともない。車窓風景の写真を撮ろうと思ったが、列車はひどい吹雪の中を走っていて、窓の外は一面真っ白。シャッターを切ったところで何も映っていやしない。

真冬の北海道を旅していると、いつも考えることがある。こんな北国の原野の真ん中に、よくぞ人間が住み着いたものだと。やむにやまれぬ事情を抱えた人たちには違いないが、北海道の真冬は、安易な気まぐれだけで越せるものではないだろう。国木田独歩は秋の空知地方を下見しただけで実際の移住は実現しなかったし、月寒の牧場に仕事を求めた高村光太郎は、一か月も持たずに北海道を去っている。100年以上の冬を乗り越えてきた移住者たちの歴史は驚愕に値することだと、僕は思う。

雪の深いことと地に達する氷柱のあったこと

札幌からおよそ30分で空知地方の中心である岩見沢に到着。現代では札幌からの通勤圏内でさえあるが、啄木はここ岩見沢の姉の家で一夜を過ごしている。岩見沢の街で見つけたものは「雪の深いことと地に達する氷柱のあったこと」くらいだったが、「凍れるビールを暖炉に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐」は、孤独な歌人の胸にさぞかし沁みたことだろう。考えてみると、極寒の季節に(しかも明治時代に)小樽から釧路までという非常に長距離の道内列車の旅をした啄木の記録は、文学的価値だけではなく、郷土史料としても非常に貴重なものである。凍ったビールをストーブの熱で溶かしながら飲んでいる光景からは、110年前の北海道の人たちの厳しい暮らしを垣間見ることができる。

岸から岸まで氷が張り詰めていて

「江部乙駅を過ぎて間もなく、汽車は鉄橋にかかった。川もないのに鉄橋とはおかしいと思って、窓をあけると、傍人は「石狩川です」と教えてくれた」気が付けば、特急ライラックは啄木が昼食を食べた砂川の駅を通り過ぎていた。食事の記録には細かい啄木が、砂川で何を食べたのか記録していないのが残念。いつの間にか、屯田兵村が並んでいたという滝川の街も通り過ぎている。

啄木が見た石狩川は「岸から岸まで氷が張り詰めていて、その上に何尺という雪が積って」いたらしい。ちょっと気になって調べてみたら、啄木が訪れた1908年1月の旭川で最低気温がマイナス20℃を下回った日は17日ある。最低気温はマイナス31.7℃である。ちなみに最高気温が氷点下にならなかった日(真冬日ではない日)は3日のみであり、当時の寒さがいかにえげつなかったかということがよく分かる。逆に言うと、平成の真冬なんていうのは明治の冬に比べれば赤ん坊みたいなものなのかもしれない。

列車で隣り合わせた軍人が、車窓を眺めながら「夏は良いですがなあ」と啄木に声をかけているのが印象的である。暮らしぶりは変わっても、人間の感じ方というのは100年を経てなお変わらないものらしい。北海道は、夏には住み良いところなのだ。

雪に埋れて壁も戸も見えぬ家が散らばっている

やがて、特急列車はいくつかのトンネルを抜けて旭川の街へと滑り込んでいく。街は突然に始まって大きな住宅街の広がりを見せる。「どこまで行っても、北海の冬は雪また雪、痩せた木が所々に林をなしていて、雪に埋れて壁も戸も見えぬ家が散らばっている」と啄木が見た時代から、やはり旭川の街も発展しているらしい。ちなみに、啄木が訪れた際の旭川市の人口は約3万人、現在が34万人だから、およそ100年間で10倍以上の増加である。

風呂屋で一緒になった男は、「旭川は数年にして札幌を凌駕する」と気焔を吐いていたが、当時の旭川には、それだけのエネルギーと可能性が、きっと充満していたのだろう。なにしろ、現代の旭川は「作りそこねた落とし穴」みたいに見えるらしいからね(村上春樹「ノルウェイの森」)。やれやれ。

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さすがは寒さに名高き旭川

やがて列車は定刻より少しだけ遅れて旭川駅に到着。吹雪の中で減速したのが最後まで響いたらしい。旭川の駅舎は10年前に見たときよりも、ずっと近代的で立派な建築物に変身していた。おまけに、駅舎には大きなイオンが併設されている。対照的に駅前の買い物公園は妙に閑散としている。昔2つあったデパートはいずれも消え失せ、駅前通りが駅前通りらしからぬ静けさである。

「さすがは寒さに名高き旭川だけあって雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなっている。旭川は札幌の小さいのだとよく人は云う。なるほど街の様子がはなはだよく札幌に似ていて、曲った道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい」と、110年前の旭川の街は、啄木から大きな好感を頂いているのだが。雪の多いのは今も変わらないが、それとて、もちろん明治の頃からは随分少なくなってしまったに違いない。

泊まりし宿屋の茶のぬるさかな

この夜、啄木は駅前の宮越屋旅館に投宿、旭川の街を散策した後、風呂に入り、歌を詠んだ。「今夜こそ思う存分泣いてみむと泊まりし宿屋の茶のぬるさかな」。函館を大火で焼け出された後、札幌から小樽、そして釧路へと向かう漂白の旅の途中で宿泊した安宿の温いお茶には、人生の活路を見いだしきれない啄木の胸中が映し出されている。泣いても何一つ解決することはないと知っていたからこそ、啄木は安宿の温い茶を飲みながら「今夜くらいは思い切り泣いてやろう」と思ったのだろう。

この夜、啄木が本当に号泣したのかどうか、それは誰にも分からない。しかし、泣くより他に仕方のなかった啄木の憤りを否定することも、また誰にもできないであろう。「名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の宿屋安けき我が家のごと」啄木の宿泊した、その安宿も今はもうない。

弁菜亭の海鮮えぞ賞味

列車の旅にカフェは必要ない。本は列車の中で読めるし、本を読む以外、他にすることは何もないからだ。列車の旅の楽しみは、やはり駅弁である。小樽から釧路までの車中、啄木が駅弁を食べたという記録はないが、僕は札幌駅の弁菜亭という店で弁当を買って持ち込んだ。その名も「海鮮えぞ賞味」。

えぞ海鮮賞味

カニやウニ、イクラなど北海道を代表する海産物が乗った海鮮丼で、列車の中でこんな贅沢なものを食べることができるということが心底うれしい。たとえ食べたいと思っても、さすがに啄木の時代には、これだけの駅弁はなかっただろう。刺身も寿司飯もうまいのは、やはり北海道の駅弁だからだろう。100年以上前の時代に原生林を切り拓きながら、幾多の街を築き上げてきた開拓者の労苦には感謝の念しかない。列車の中で駅弁を頬張りながら、そんなことを考えていた。

参考情報

今回ご紹介した石川啄木の「雪中行〜小樽より釧路まで」は、青空文庫で自由に読むことができます。詳しくは青空文庫の公式サイトをご覧ください。

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どさんこケルス
どさんこケルス
札幌ソロ活代表。18歳のとき、住みたい街ランキング1位の札幌に移住。カフェ巡りと文学散歩を軸に、季節の札幌散策を楽しんでいます。好きな言葉は「振り出しに戻る」。