詩歌

石川啄木の札幌下宿跡と下宿屋の娘の田中ヒサ

札幌にとって9月は石川啄木の季節なので、集中して啄木関係の記事を書いていきたいと思います。今回は、札幌滞在中に啄木が暮らした下宿についてご紹介しますね。

石川啄木の下宿跡

石川啄木が過ごした下宿については、当時の日記に住所が記されています。

午後一時数分札幌停車場に着。向井松岡二君に迎えられて向井君の宿(北7条4の4田中方)にいたる。夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。今札幌に貸家殆んど一軒もなく下宿屋も満員なりという。

日記に記載のとおり、札幌における石川啄木の下宿住所は「札幌市北区北7条西4丁目4番地」にありました。

札幌クレストビルの石川啄木下宿跡の説明板札幌クレストビルの石川啄木下宿跡の説明板

現在は札幌クレストビルという大きなビルが建っていて、そのビルの入り口に啄木の胸像が飾られています。

北区八十八選 石川啄木の下宿跡北区八十八選 石川啄木の下宿跡

啄木の下宿跡

昭和40年の北海道新聞でも、簡単な略図付きで石川啄木の下宿跡が紹介されていました。この略図を見ると、昭和40年当時の札幌駅北口の様子が分かります(当時は「駅裏」と呼ばれていました)。

石川啄木の下宿跡を紹介する新聞記事(北海道新聞 昭和40年11月3日)石川啄木の下宿跡を紹介する新聞記事(北海道新聞 昭和40年11月3日)

その頃、北大前の通りには路面電車(札幌市電)が走っていて、現在の札幌クレストビルの場所には、電車通りに面して北7条郵便局がありました。そして、石川啄木の下宿跡は、この北7条郵便局の「裏手」にあったことが示されています。

石川啄木の下宿跡の略図(北海道新聞 昭和40年11月3日)石川啄木の下宿跡の略図(北海道新聞 昭和40年11月3日)

しかし、その後の調査の中で、啄木の下宿跡は北7条郵便局が建っていたその場所にあったことが判明しています。詳細は札幌市北区が発行する「エピソード・北区」に書かれていますが、田中家は明治41~42年頃に引っ越しをしており、下宿屋は人の手に渡った後、昭和7年全面改築されたそうです。

古い洋風擬いの建物

さて、この下宿の様子については、後年啄木が執筆をして生前未発表だった小説「札幌」の中で詳しく描かれています。この小説「札幌」は、啄木が当時の日記を下敷きにして、札幌時代を回想しながら書いたものと推測されます。

立見君の宿は北七条の西○丁目かにあった。古い洋風擬いの建物の、素人下宿を営んでいる林という寡婦の家に室借りをしていた。立見君はその室を「猫箱」と呼んでいた。台所の後の、以前は物置だったらしい四畳半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭がつかえて立てなかった。その狭い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。

啄木の暮らした下宿屋は「古い洋風擬いの建物」とあり、近代アメリカ文化を持ち込んで発展してきた札幌の街で、この建物はきっと溶け込んでいたのではないでしょうか。建物の写真などは残っていないようで残念。

下宿屋の娘 田中ヒサ

さて、啄木が暮らした下宿は、田中サトという未亡人が営む素人下宿でしたが、サトには2人の娘がありました。小説「札幌」は、この2人の姉妹(特に姉)にスポットライトを当てて、物語が進められていきます。

宿のかみさんはもう四十位の、亡夫は道庁でかなりな役を勤めた人というだけに、品のある、気のしっかりした、言葉に西国の訛りのある人であった。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒヒョロ高い、愛嬌のない寂しい顔をしている癖に、思う事は何でも言うといった様な淡白(きさく)なたちで、時々間違った事を喋っては衆みんなに笑われて、ケロリとしている児であった。

姉は真佐子と言った。その年の春、さる外国人の建てている女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育していない様に見えた。妹とはにてもつかぬ丸顔の、色の白い、何処と言って美しいところはないが、少し藪睨みの気味なのとかたえくぼのあるのとに人好きのする表情があった。女学校出とは思われぬ様なしとやかな娘で、絶え絶えな声を出して讃美歌を歌っている事などがあった。

小説の中で2人の姉妹は仮名で登場していますが、姉の真佐子(本名ヒサ)が卒業した「さる外国人の建てている女学校」は、サラ・クララ・スミスによって創設された北星女学校のことです。

「丸顔の、色の白い、何処と言って美しいところはないが、少し藪睨みの気味なのとかたえくぼのあるのとに人好きのする表情があった」などの表現から、啄木がこの19歳の姉を一人の女性として意識していたことが分かります。とにかく石川啄木は女性への関心が異常に高い若者でした(ちなみに、このとき既に妻子あり)。

わが宿の姉と妹のいさかいに

ここで登場する姉妹を詠んだ有名な歌が「一握の砂」に残されています。

わが宿の姉と妹のいさかひに
初夜過ぎゆきし
札幌の雨

啄木の札幌滞在中は不安定な天候の日が多く、札幌に到着したこの夜も雨が降っていました。函館からやってきた啄木にとって、9月の札幌の涼しさは予想以上のものだったのではないでしょうか。それが、秋雨の降る夜ともなればなおさらです。19歳と13歳の女の子の姉妹喧嘩の中で過ぎてゆく札幌の夜に身を置きながら、啄木は新しい暮らしへの不安を抱え込んでいことと思われます。

スイートピーの花

少なからず意識していたと思われる女性・真佐子について、啄木は美しいエピソードをひとつ、小説「札幌」の中に書き記しています。それが「スイートピーの花」に関するエピソードです。

真佐子はいつもの場所に坐って、編物に倦きたというふうで、片肘を机に突き、編物の針で小さい硝子の瓶に挿した花を突ついていた。豌豆の花の少し大きいような花であった。
「何です、その花?」と私は何気なく言った。
「スヰイトビインです」
よく聞えなかったので聞直すと、「あの、遊蝶花とか言うそうでございます」
「そうですか。これですかスヰイトビインと言うのは」
「お好きでいらっしゃいますか?」
「そう! 可愛らしい花ですね」
見ると、耳の根をほんのり紅くしている。

おそらく当時まだ日本では珍しかったスイートピーの花を介することによって、啄木はこのミッション系の女学校を卒業したばかりの真佐子のことを、現代的な女性として長く記憶することになったのではないでしょうか。

妻と下宿屋の娘と

この下宿屋に啄木は2週間しか滞在していなかったのですが、この間に一度だけ、一時的に小樽にある姉の家に滞在していた啄木の妻子が、札幌の下宿屋を訪れています。

その翌日、私の妻が来た。私の子供は生れてやっと九ヶ月にしかならなかったが、来るとすぐ忘れないでいて私に手を延べた。
真佐子は、妻の来るときから私の子供を抱いて、のべつに頬擦りをしながら、家の中を歩いたり、外へ行ったりしていた。泣き出しそうにならなければ妻のところに伴れて来ない。二人限になった時、妻は何かのついでにこんな事を言った。
「真佐子さんは少し藪睨みですね。おとなしい方でしょう」
やがて出社の時刻になった。玄関を出ると、そこからは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立っていた。私を見ると、「あれ、父様ですよ、父様ですよ」と言って子供に教える。
「重くありませんか、そんなに抱いていて?」
「いいえ、嬢ちゃん、サア、おみやを買って来て下さいッテ。マア何とも仰しゃらない!」と言いながら、耐らないと言ったふうに頬擦りをする。赤児を可愛がる処女には男の心をくすぐるようなところがある。私は二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立っているので、そのまま門外へ出てしまった。

このとき、啄木の妻は、啄木が下宿屋の娘に何らかの特別な思いを抱きつつあることを敏感に感じ取っています。あるいは、啄木がそのように感じさせるような振りをしていたのかもしれません。啄木の文章からは、妻と真佐子(実名ヒサ)と対する微妙な思いが漂ってきます。この辺りも女性に目がなかった啄木らしさなのかもしれませんね。

おわりに

小樽の新聞社へ転職した啄木は、やがてこの小樽の新聞社も追われて、真冬の釧路へとさらに転職をすることになります。下宿屋の未亡人サトは、姉ヒサの就職先の世話を啄木に依頼しており、啄木は釧路市内の学校で代用教員の職を探しますが、空きはありませんでした。啄木と下宿屋との関係はここで途切れ、再び啄木の前にスイートピーの女性が姿を現すことはありませんでした。わずか2週間の滞在中にも気になる女性を見つけてしまう。これも石川啄木という男性の大いなる魅力だったのかもしれませんね。

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どさんこケルス
どさんこケルス
札幌ソロ活代表。18歳のとき、住みたい街ランキング1位の札幌に移住。カフェ巡りと文学散歩を軸に、季節の札幌散策を楽しんでいます。好きな言葉は「振り出しに戻る」。