「円山公園行き」の市電
「御夫婦でお願いしますよ。旦那様にも可愛がって頂いているそうで」
ばあやのこの一言で桂木夫人は、主人公である怜子と自分の夫との秘密の関係を悟ってしまう。
やがて夫人の遺体は、釧路原野を流れる川でイトウ釣りに来た釣り人によって発見されます。
北海道のガリ版刷りの地方同人誌から全国にブームを巻き起こした、原田康子の「挽歌」の結末です。
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物語の中で怜子は、桂木の出張先である札幌までやってきて、桂木と一緒の五日間を過ごす。
わたしたちが押し問答をしたのは、わたしが最初に電車を降りた四辻の停留所であった。電車が来ると、桂木さんはわたしの背中を押すようにして電車に乗った。それは西のほうに行く電車だった。「挽歌」原田康子(1956年)
この作品が発表された昭和31年、札幌市内には多くの市電が走っていました。
もちろん地下鉄などなく、市電が重要な交通インフラだった時代です。
「四辻の停留所」は当時「十字街」と呼ばれていた「西4丁目」の電停。
二人は西に向かう電車に乗って終点で下車しているので、きっと一条線の「円山公園行き」に乗ったのでしょう。
電車を降りてから歩いた小道の暗がりで若い男女と出会ったとき、桂木も「公園だ」と笑っています。

上の写真は現在の電停西4丁目の風景。
札幌の主要な交通インフラが地下鉄へとシフトした際に、市内の市電路線はほとんど廃止され、かろうじて一路線だけが生き残りました。
それでも、近年ループ化を果たすなど、札幌の市電は一定のニーズを支え続けています。
現在の西に向かう電車は、西15丁目から南下してしまうので、かつての市電通りをたどる場合は、西15丁目で下車して、そのまま西に向かって歩いてみましょう。
そのまま西へ直進していくと、西20丁目で小さな公園に突き当たります。
ここで電車はいったん北進し、大通でさらに西へと向きを変えていたようです。
大通に入った後は、円山公園に突き当たるまでまっすぐに進めばオーケー。
怜子は「車窓に流れて行く平坦な街の家々の明りに旅情を覚えながら」桂木が自分との結婚を望んでいたことを、ぼんやりと考えます。
二人は「終点の停留所で電車を降り、人通りのない高い森の道」を歩いていきます。
桂木の家は「その森の裏手の、暗い静かな通りに面していた」。

写真はかつて円山公園の電停があった跡地。
環状線から入りこんだ道路が不自然に行き止まりになっているから、すぐに分かります。
桂木の実家はこの周辺にあったようですが「森の裏手の、暗い静かな通り」がどこの道を差しているのかはっきりしません。
「遠くの夜空が明るく映え、高い庭の木々のあいだに、間隔をおいて散らばる住宅の窓の明りがあった。ときどき、森の陰のほうで自動車のクラクションや電車の警笛が鳴った」とあるので、円山公園にほど近い場所であることは間違いないのですが。
この家で暮らしながら、怜子は毎朝「森の停留所」まで桂木を送っていきます。
彼女は「彼を乗せた電車が、霞んで見えなくなるまで、物音のすくない朝の街路に、ぼんやり突立っていた」。
そして「雪でひどく歩きにくい森の中をゆっくりと散歩」します。
「わたしはただ、この知らない街の森の楡の朽葉や、芝生の赤錆びた鎖や、愛人を乗せて行く電車や、それを見送るわたし自身を、そのときだけのものとして愛しんだ」のです。
ドリーム・シティ札幌
釧路に住む怜子にとって、札幌は紛れもない都会だったのでしょう。
「商品の豊富な、光りの溢れた店先に、雪がゆっくり落ちてきたりすると、わたしは、わたしが札幌ではなく外国の北の町、ドリーム・シティとでも呼ぶべき町を、恋人と一緒に歩いているような気がして一人で喜んだ」。
もちろん、昭和31年のことなので、現在の札幌の街とは比較にならないと思いますが、釧路で暮らす若い女性にとって、札幌はそれほどまでに魅力的な街だったのだと思います。

写真は、現在の西4丁目付近の夜の様子。ドリーム・シティかどうかはともかく、ホワイト・イルミネーションも点灯しているので、光が溢れていることは確か。
雪が積もって路面が凍結したりすると、街は一層神秘的なくらいに美しくなります。
まあ、生活する人々にとっては最悪な状態なんですが(笑)
札幌を離れる日の日曜日、怜子は桂木と一緒に市街へと出かけています。
「目抜き通りは、週日よりも人出が多いようだった。大勢の市民、学生、そして旅行者、北海道の政庁のある都会らしい繁雑さと活気が街にあった」。
目抜き通りは札幌駅前通りのことだったのか、あるいは、南一条通りのことだったのか。
桂木は「むこうの方角に大倉シャンツェがある」と言いながら「明治調のくすんだ煉瓦の洋館や、アメリカ式のビル、タワーの立った高層建築の工事場、木造の民家などが整然と並んだ街区の端の丘のほう」を指差して見せます。
おそらくは、南一条の電車通りを歩きながら、遥か西に大倉山を認めていたのでしょう。
それにしても、当時の札幌中心部には、まだ「木造の民家」が整然と並んでいたのかと思うと感慨深いものがありますね。
現代の中心部は完全にビルばかりの街なんだから。
こうして、ひとつの時代を思いながら街を歩くのは楽しいものです。
もちろん、当時を偲ぶものは何も見つからないかもしれません。
だけど、それはそれで良いと僕は思っています。
時代の移り変わりの中で生きている自分と向き合うこともまた、僕たちには必要なことだと信じているから。
最後に、原田康子さんについては、別記事「「挽歌」の作者・原田康子さんが暮らした電車通りの町を歩いてみた」でも紹介しているので、併せてご覧ください。
