北海道には「リラ冷え」という美しい言葉があります。
この「リラ冷え」という言葉を最初に使ったのは、俳人の榛谷美枝子さんだと言われています。
今回は、「リラ冷え」という言葉が広まった経過と、榛谷美枝子さんの俳句についてご紹介したいと思います。
リラ冷え
北海道では5月下旬から6月上旬にかけて、一時的に気温が低くなる時期があります。
この季節、札幌ではちょうどライラックが咲く時期であることから、この寒さの戻りのことを「リラ冷え」と呼ぶようになりました。
桜の季節に冷え込むことを「花冷え」と言いますが、その北海道アレンジバージョンだと考えていいようです。
川辺為三「リラ冷えの街」解説
「リラ冷え」という言葉が、一般に知られるようになったのは、渡辺淳一さんの小説「リラ冷えの街」が発表されてからのことです。
新潮文庫版「リラ冷えの街」の解説には、次のような文章が掲載されています。
この作品は、北海道新聞社が試みた日曜版連載小説の第一弾として、1970年(昭和45年)の7月から翌年の1月までに発表された。日曜版の一面の3分の2のスペースをさき、1回に20枚を載せるという、新聞小説の型を破った企画であったが、その第1回として「リラ冷えの街」は成功だった。
「リラ冷え」という新しい言葉は、不自然でなく札幌の街に定着した。今では多くの人が、それが渡辺淳一の造語であることも知らずに使用しているし、俳句の季語にもなってしまったようだ。
「リラ冷えの街」解説より、川辺為三(1978年)
この解説の中に「渡辺淳一の造語」とあるのは、残念ながら誤りのようです。
以下「リラ冷え」という言葉が発祥した経緯について追いかけてみましょう。
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渡辺淳一「リラ冷えのころ」
小説「リラ冷えの街」のタイトルについて、作者である渡辺淳一さんは、「リラ冷えのころ」というエッセイの中で、次のように綴っています。
この題名の「リラ冷え」というのは、日本語の正規の言葉としてはないはずである。
たまたま辻井さんの本の中に、榛谷美枝子さんの句が紹介されていて、そのなかに、リラ冷えや十字架の墓ひとところ
リラ冷えや睡眠剤はまだきいての句があった。私はこのあとの句がとくに気に入ってる。
「北国通信」所収『リラ冷えのころ』渡辺淳一(1981年)
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「ライラック」辻井達一
渡辺淳一さんのエッセイに登場する辻井達一さんは北海道大学農学部の先生で、北大植物園の管理をされていた方でした。
ちなみに、小説「リラ冷えの街」の主人公も北大植物園に勤務しているので、設定上のモデルとして辻井達一さんが使われているようです。
この辻井さんの著作に『ライラック』という本があり、その中で「リラ冷え」という言葉が紹介されています。
日本では最近出版された榛谷美枝子さんの句集(自費出版のため、一般には出されていない)から。
リラ咲くと聞き札幌へ途中下車
ビール飲む約束はあとリラを見にとやはり北大植物園へ、だと思う。
リラ冷えやすぐに甘えてこの仔犬
リラ冷えや十字架の墓ひとところ
リラ冷えや美術講演パリのこと
リラ冷えや睡眠剤はまだきいてのように、その頃の札幌は、まだ時にうすら寒い日が見舞う。
「ライラック」辻井達一(1970年)
つまり、渡辺淳一さんは、昭和45年に出版されたばかりだった辻井達一さんの『ライラック』という本の中で「リラ冷え」という言葉を見つけて、同年に発表する小説のタイトルとして使用したということになるみたいです。
自費出版の句集の中から「リラ冷え」の語句を拾い出したのは、ライラック研究の専門家である辻井さんの功績だと思いますが、辻井さんは「リラ冷え」という世の中に存在しない言葉そのものには、特にコメントを残していません。
「リラ冷え」という言葉に敏感に反応した渡辺淳一さんは、やはり小説家として、文学的なセンスに秀でていたということなのではないでしょうか。
「リラ冷え」という言葉は、俳人であった榛谷美枝子さんによる造語だと思われますが、そのエッセンスを上手に汲み取って季節感溢れる小説に仕立てあげ、これを社会的に定着させたという点で、渡辺淳一さんの功績は非常に大きかったと考えられます。
「句集 雪礫」榛谷美枝子
「リラ冷え」という言葉が、俳人である榛谷美枝子(はんがいみえこ)さんによる造語であったかどうか、事実関係を確認することは不可能だと思われます。
ただ、少なくとも現在私たちが使っている「リラ冷え」という言葉の発祥が榛谷美枝子さんの句集にあることは間違いないようです。
榛谷美枝子さんは1916年7月22日生まれ、滝川市江部乙の出身。
1930年(昭和5年)から俳句を作り始め、1934年(昭和9年)から「ホトトギス」への投句を開始。
「昭和9年秋。石田雨圃子先生のおすすめで、ホトトギスに初めて投句して入選」の前書きとともに、次の作品が残されています。
病ひよし粧ひをして月の宴
夕立にぬれねづみなる老アイヌ
橇を馳る霧氷並木のつづくのみ
1950年(昭和25年)には山口青邨が主催する「夏草」の同人となります。
1968年(昭和43年)、初めての句集『雪礫』を発表しますが、自費出版のこの句集こそ、辻井達一さんの『ライラック』で紹介されている句集であり、「リラ冷え」という言葉が世の中に登場するきっかけとなった本ということになります。
ちなみに、この処女句集は、北海道新聞文学賞の候補作品となるなど、広く注目を集める作品となっています。
リラ咲くと聞き札幌へ途中下車(昭和29年)
ビール飲む約束はあとリラを見に(〃)
リラ冷えやすぐに甘えてこの仔犬(昭和35年)
リラ冷えや睡眠剤はまだきいて(昭和37年)
リラ冷えや美術講演パリのこと(昭和39年)
リラ冷えや十字架の墓ひとところ(昭和41年)
リラ冷えや落付かぬ日は廊下拭く(〃)
師の庭のリラは今年も花芽なく(昭和42年)
※「五月十七日、井上りうさん逝去」の前書きとともに
白きリラに音なく降れる雨かなし(昭和42年)
花冷えにつづくリラ冷えただ悲し(〃)
『句集 雪礫』には、リラに関する俳句が頻繁に登場しています。
昭和30年代は、ライラックが「札幌の樹」として指定されるなど、市民の関心が高まった時期であるとともに、榛谷さんは純粋にライラックの花がお好きだったのかもしれません。
「リラ冷え」の季語が初めて登場するのは、昭和35年の「リラ冷えやすぐに甘えてこの仔犬」という作品ですが、この俳句が、どこかの俳句誌で発表されたものかどうかは分かりません。
仮に、俳句誌での発表がない作品ということになると、この作品が初めて公になったのは昭和43年の『句集 雪礫』発表時ということになります。
昭和43年に『句集 雪礫』が発表され、この作品を読んだ辻井達一さんが、昭和45年に『ライラック』を出版。
さらに同年夏から渡辺淳一さんの『リラ冷えの街』の連載が始まり、小説のヒットとともに「リラ冷え」の言葉は市民の間で急速に定着していったものと思われます。
「句集 冷夏」榛谷美枝子
初めての句集『雪礫』の発表から9年後の1977年(昭和52年)、榛谷さんは2冊目の句集『冷夏』を発表します。
この句集の中にもリラに関する作品がいくつか紹介されています。
隠れ飲む眠剤苦しリラ芽吹く(昭和44年)
札幌のリラ咲き満てり師を寿ぎて(昭和46年)
「ガン病棟」買ひ来て読まずリラ芽吹く(〃)
北国の墓みな傾ぎリラ芽吹く(〃)
リラ冷えやマンネリの家事叱咤して(〃)
喪の如き黒衣を常にリラの雨(〃)
窓開けてリラ匂ふなり「母国」読む(昭和47年)
リラ冷えや黒きベールも喪にあらず(昭和48年)
リラ冷えや輝くものは身に付けず(〃)
リラ冷えや棺打つ石ひびかせて(昭和49年)
余命計る物差しは銀リラに雨(〃)
いかがでしたか
ライラックの花は、札幌の初夏の風物詩です。
そのライラックが咲き誇る季節を美しく表現した「リラ冷え」という言葉は、本当に素晴らしい言葉だと思います。
ぜひ皆さんも「リラ冷え」という言葉を日常生活の中で使ってみてくださいね。

