三浦綾子「ひつじが丘」とは
(2023/09/27 17:10:31時点 楽天市場調べ-詳細)
昭和40年8月から昭和41年12月にかけて、雑誌「主婦の友」に連載された長編小説で、昭和41年12月、主婦の友社から単行本として出版されました。
三浦綾子さんとしては、昭和39年に「氷点」で朝日新聞社一千万円懸賞当選小説を受賞して以来、第2作目の長編小説ということになります。
「ひつじが丘」のあらすじ
時代は昭和24年から始まります。
北星女学校を卒業した奈緒実は、同級生である京子の兄・良一に強く惹かれるようになります。
一方、女学校時代の教師・竹山は奈緒実を強く愛するようになり、奈緒実の父親が営む教会へと通うようになります。
奈緒実の両親は、良一との結婚を認めようとしませんが、奈緒実は駆け落ちするように函館で良一との暮らしを始めてしまいます。
やがて、酒と女に溺れる良一の姿を見て、奈緒実は両親の言葉が正しかったことを知ります。
札幌に戻った奈緒実を追いかけて、良一は奈緒実の教会で一緒に暮らすようになり、それまで信じることのできなかった「神」という存在を強く意識するようになります。
奈緒実は良一から逃れようと竹山を求めますが、竹山は奈緒実に拒絶されたことで京子との結婚を決意していたのでした。
北星女子高校とリラの花
札幌の人々は、京子たちの学校を北水女子高校と、正規の名前では呼ばず、もう長いことリラ高女と呼んでいた。リラの木が多かったからである。紫に白の絵の具をたっぷりとかきまぜたような、リラの花の色と、その香りが京子は好きだった。
北水女子高校のモデルはもちろん「北星女子高校」ですよね。
サラ・クララ・スミスが設立した札幌で最初の女子高校で、ミッションスクールでした。
リラ(ライラック)は、このスミス女史が初めて日本に持ち込んだと言われており、そのため北星女子高校の校庭には、季節になると現在でもライラックの花が咲き誇ります。
日本最初のライラックは、この校庭に植えられていましたが、太平洋戦争中に伐採されてしまいました。
現在は、北大植物園に移植されていたものが里帰りをして植えられていて、明治時代のライラックを偲んでいます。
ライラックは、「札幌の木」として指定されており、初夏の札幌を語る上では欠くことのできない存在です。

アカシヤ並木とアメリカ兵
二人はだまってアカシヤの並木通りを歩いて行った。アメリカ兵が街にあふれていた。アメリカ兵のまわりだけが、陽気で活気に満ちているように見えた。二人は、喫茶店「エルム」の前に通りかかった。「のどがかわいたわ。入らない?」
アカシヤ並木は、札幌を代表する並木道として数々の歌や小説に用いられた題材です。
ちなみに、当時は「アカシア」ではなく「アカシヤ」の表記が一般的でした。
昭和中期までは札幌駅前通りや北一条通りのアカシヤ並木は素晴らしいものだったらしく、至るところで絶賛されていました。
現在では、道路拡張工事などの際に伐採されてしまっており、往時を偲ぶことはできません。

昭和24年というと、日本はまだ占領軍の管理下にあった時代であり、街には占領軍の兵士たちの姿が溢れていたわけで、札幌も決して例外ではありませんでした。
陸橋と北大のポプラ並木
二人は陸橋の上に立っていた。陸橋の下を汽車が過ぎた。二人は歩き出した。竹山もだまっていた。竹山には、京子に対するような優しさがなかった。奈緒実がだまっていると、竹山も無言だった。二人はいつの間にか、通りを外れて北大構内に入っていた。
夏休みの大学構内は静かだった。自転車で構内を通りぬける人が何人かいるだけである。「広野さん。どうして君はそう、いつもむっつりとしているんですか」竹山が立ちどまった。大きなエルムの下である。あかね雲がうすれて、黄いろく昏れのこる空にポプラの影がくろく佇立している。
小樽のオタモイ海岸を訪れたあと、竹山と奈緒実は札幌駅を出て、北に向かって歩いていきます。
陸橋は西5丁目の陸橋でしょう。
北大構内は戦前の頃から、観光客も訪れる北海道らしき風景を持つスポットでした。
アカシヤ並木の白い花
二人は駅前通りへ出た。「あら、アカシヤの花が咲いているわ」「ほんとうだ、もう咲いているんだね。今年は早いんじゃないかなあ」二人は人の波に飲まれながら、白いアカシヤの花を見上げていた。二人は何となく顔を見合わせて、ほほえんだ。「コーヒーはどこがいい? 紫煙荘がいいかな」
春らしい春がない札幌にとって、初夏は春以上に市民が待ちわびる季節です。
ライラック、札幌まつり、アカシヤの花と、札幌の初夏を思わせる風物詩は少なくありません。
狸小路と紫煙荘
二人は、明るい店の続く狸小路を人の波にもまれながら歩いた。「ぼく、コーヒーよりビールを飲みたいな。ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」「では、お飲みになれば?」「ぼく、飲んべえだって京子に聞いた?」「いいえ」
二人は、狸小路の人ごみから外れて、紫煙荘に入った。落ちついた小さな店である。若い男女が幾組も、ひっそり、すわっていた。「ここ、はじめてよ」「この店はコーヒーがうまいんですよ」
札幌はビールの街です。
明治時代に、開拓使(現在の北海道庁)がビール会社を設立したことから始まるサッポロビールの地元でもあり、市民のビールに対する関心は高いようです。
「ビールは札幌祭りの頃からうまい」は、いかにも札幌的な表現ですよね。
「札幌まつり」は北海道神宮の例大祭のことであり、毎年6月14日から17日までの3日間に行われます。
初夏の札幌を代表するイベントであり、特に中島公園を埋め尽くす露店は壮観。
「紫煙荘」は、昭和7年に開店した老舗の喫茶店で、長く営業を続けていましたが、昭和44年に閉店しました。
喫茶ニシムラの西村久蔵
京子からの電話で、奈緒実が喫茶ニシムラに出かけたのは、八月も末の肌さむいような夕暮であった。ニシムラは戦前から洋生で名高い店で、喫茶と食事の部も経営している。奈緒実の父は、この店の主人西村久蔵と進行があった。
西村久蔵は賀川豊彦と共に、引揚者のために江別にキリスト村を拓いたり、信者や牧師のためにその生涯をささげてきた大樹のようなクリスチャンであった。だから、奈緒実もこの店には時々来ていた。
西村久蔵は洋菓子店「ニシムラ」の経営者であるが、キリスト教社会運動家の賀川豊彦と行動を共にし、昭和23年からは江別市の石狩川河畔にキリスト村の開拓を計画しました。
札幌北一条教会の役員でもあり、三浦綾子さんとも親交がありました。
三浦綾子さんには『愛の鬼才 西村久蔵の歩んだ道』という作品があります。
我々世代にとっては「洋菓子のニシムラ」として懐かしい存在で、北海道各地でニシムラのケーキは人気でした。
札幌駅地下構内にあった「聴覚障害者の100円ケーキの店」も、現在では既に懐かしい存在ですね。
創業者の西村真吉は、三岸好太郎を支援するなど、札幌の芸術活動にも尽力した人物だったそうです。
コスモスとトウキビ
九月も半ばの土曜日の午後である。教会の庭にコスモスの花が風に揺れていた。その傍らに、教会の青年男女が二十人ほどでトウキビの皮をむいている。ピッと皮をむくと、ギッシリとつまった黄色い清潔な実が秋の陽に輝く。竹山も奈緒実も青年たちの中にいた。
トウキビの皮むきは秋らしい光景のひとつ。
近年、トウキビの出始めは7月下旬頃であり、8月中に最盛期を迎え、9月には街中にトウキビが溢れるようになります。
最近では1年中いつでも食べられるようになったトウキビですが、やっぱり旬の時期の新鮮なものが一番美味しいですよね。
北大植物園
奈緒実は植物園の入り口で入園券を買った。一歩中に入ると、街の真中にいることが嘘のように思われた。広い芝生も、何百年の樹齢を持つドロやエルムも、曇った空の下に、しっとりと沈んだみどり色を見せている。
高い竹垣をめぐらしているので、外は見えない。昼なお暗い木立の向うに、街があるとは思えなかった。ボートを浮かべる池もないが、いつ来ても静かな植物園を、奈緒実は公園よりずっと好きだった。
北海道大学付属植物園は、明治時代に設立された北海道で最も古い植物園で、素晴らしいのは園内の光景が明治期とほとんど変わっていないということではないでしょうか。
人口100万人を超す大都市の中心部に、これだけ大きな緑地空間が存在しているというのも、かなり特殊なことだと思わます。
北大植物園の設立に当たっては、札幌農学校(現在の北海道大学)第2期生であった宮部金吾先生の尽力によるところが大きかったと言われています。

初雪とトウキビ焼き
朝からの雪はまだ止まなかった。良一が函館へ転任したのは、札幌の街に、トウキビ焼が、トウキビを焼いている頃であった。
現在、大通公園のトウキビ売りは10月いっぱいで終了します。
個人の屋台が流していた時代には、トウキビももっと寒い季節にまで焼かれていたのかもしれません。
湯気の立つトウキビ
九月に入ると、宵早く窓を閉ざすようになる。浴衣ではいかにも寒々しい。竹山は行李から袷を出して着更え、湯気をたてているトウキビを手にとった。たった今、母屋から届けられたばかりのトウキビのあたたかさが、手に心地よかった。竹山はトウキビをほつりほつりと食べながら時計を見た。既に八時を過ぎている。
作品中、トウキビに絡むシーンが数多く登場していて、作者のトウキビに対する思い入れを感じさせます。
昭和の時代、茹でられたばかりのトウキビは、北国では何よりのおやつでした。
狸小路商店街
奈緒実は事務所のすぐ近くの狸小路を歩いていた。狸にばかされて、つい買い物をしてしまうといわれる、札幌随一のこぎれいな商店街である。仲通をはさんだ両側に、食堂、菓子屋、果物屋、時計屋、呉服屋、洋品店、そして映画館、パチンコ屋などが、数町ぎっしりと並んでいる。
明治初期に始まったといわれる狸小路は、札幌でもっとも老舗の商店街です。
アーケードの付いた大きな商店街は札幌市民にとって欠かせない存在でしたが、近年は大型商業施設の登場により狸小路の人出も昔とは変わってしまったようです。
小さな店がたくさん並ぶ風情ある狸小路の景観も昔のことで、現在では全国チェーンの店が現代的なビルを構える時代。
狸小路がいつまでも狸小路らしさを失わないよう祈るばかりです。
喫茶ポプラとアベック喫茶
「そこで、久しぶりにお茶でも飲みましょうか」奈緒実は近くのポプラという喫茶店を指さした。「ええ」京子はためらいがちな表情で、それでも奈緒実のあとについてきた。うす暗い喫茶店の中に客が何組か、ひっそりとすわっていた。「暗いのねえ」アベック専門の喫茶店のようだと、奈緒実は店の中を見まわした。
この作品の中には、当時実在した喫茶店がいくつも登場して興味深く読めます。
「ポプラ」もそのひとつ。
ナナカマドの赤い実
うすく汚れた窓越しに、ナナカマドの赤い実が初冬の陽に輝いている。良一はふいに心が暗くなった。ナナカマドの赤い実を好きな女がいた。サトミという女だった。良一は半年ほどサトミのアパートに出入りしていたが、そのアパートの窓から、ナナカマドの木が見えた。「あの木には赤い実がなるのよ。木いっぱいに赤い実がなるの」
ナナカマドは冬に赤く色づく実が特徴の街路樹で、北海道では特に好まれています。
赤い実に白い雪が降り積もった朝は、幻想的な風景なんです。
水道管凍結と水道管破裂
「奈緒実さん、まだ終わらないの」愛子の声がした。「はい、いま水を落としたら参ります」奈緒実は水道の水をボールに勢いよく流して、元栓を開いた。水はクウッという音を立てて落ちて行った。「ほんとうに、今夜は寒いから水を落とし忘れたら、水道管破裂ですよ」愛子が答えた。
「水を落とす」という言葉は北海道では忘れられない言葉です。
気温が低い夜(しばれる夜)には、水道管の中の水さえ凍りつき、ひどい時には凍りついた水が膨張して水道管を破裂させてしまいます。
そのため、寒い夜に家庭では、水道管の中の水をからっぽにしてから就寝しなければなりません。
水道管が破裂しないまでも、管の中の水が凍結して、水が出なくなってしまうことは珍しいことではありませんでした。
しばれる夜には雪が鳴く
歩くたびに雪道がキュッキュッと音をたてた。良一はこの音がきらいだった。
雪道が鳴るのは、気温が低い夜の証拠です。
水分を多く含んだ雪であれば鳴いたりはしません。
羊が丘展望台と観光バス
丘を越えて赤い観光バスが土埃をあげながら、近づいてきた。セーラー服の少女たちが、三台のバスから降りてくるのを竹山はじっと見ていた。(中略)少女たちが柵の近くに群がって、牧場の羊群をバックに写真を撮り合っている。
物語のラストシーン。
羊ヶ丘展望台の当時の様子が描かれています。
この作品では、さまざまに揺れ、迷う人の心を「迷える子羊(ストレイシープ)」に例えている部分で、表題の「ひつじが丘」につながっているのですが、その象徴ともいうべき「羊ヶ丘」が、小説の最後の場面に登場してひとつの結論を導き出しています。
それにしても、ほとんどすべての道が舗装化されてしまったのではないかと思われる札幌では、羊ヶ丘でさえ、既に「土埃」を見ることはできません。
観光客の姿が絶えないという部分だけが、今も昔も変わらない光景なのかもしれませんね。
いかがでしたか
三浦綾子さんの「ひつじが丘」では、戦後間もない1950年前後の札幌の様子が描かれています。
現代から70年近く昔の話ということになりますが、不思議と違和感はありません。
札幌という街が持つ本質的なものは、昔から変わっていないということなのかもしれませんね。
小説を読んだ後は、皆さんもぜひ、札幌の街へ文学散歩にお出かけしてみてください。
