カルチャー

石川啄木、札幌時代の日記を読む

札幌にとって秋は石川啄木の季節です。なぜなら、啄木は明治40年の9月に札幌の人となっているからです。啄木の札幌滞在はわずか2週間という短い期間でしたが、啄木の存在は今も札幌市民の大きな誇りとなっています。今回は、札幌滞在中に記された日記(丁未日誌)を読みながら、当時の啄木の暮らしぶりについて振り返ってみたいと思います。

9月14日(土)

午後一時数分札幌停車場に着。向井松岡二君に迎えられて向井君の宿(北7条4の4田中方)にいたる。既にして小林基君来り初対面の挨拶す。夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。今札幌に貸家殆んど一軒もなく下宿屋も満員なりという。

明治40年9月14日(土)、石川啄木は初めて札幌を訪れます。函館の小学校で代用教員をしていた啄木は、8月の函館大火で被災し、住居も仕事も失ってしまいます。啄木は友人のつてで札幌の新聞社に勤め先を見つけ、列車の旅で札幌までやって来たのです。函館から札幌までの道のりで詠んだ歌は、歌集「一握の砂」に収録されています。もちろん、札幌滞在中にも啄木は四首の歌を残しました。

札幌で初めて過ごした夜のことも短歌として残されています。

わが宿の姉と妹のいさかひに
初夜過ぎゆきし
札幌の雨

「わが宿の姉と妹」は啄木が滞在した下宿屋、田中サト宅の2人の娘・久子と英子のことです。ちなみに、北7条西4丁目4番地にあった田中サトの下宿跡(現在の札幌クレストビル)には、啄木の胸像と説明板が設置されています。

石川啄木の札幌下宿跡と下宿屋の娘の田中ヒサ札幌にとって9月は石川啄木の季節なので、集中して啄木関係の記事を書いていきたいと思います。 今回は、札幌滞在中に啄木が暮らした下宿...

それにしても「今札幌に貸家殆んど一軒もなく下宿屋も満員なり」はすごい状況ですね。函館を焼け出された多くの人たちが、札幌に移り始めていたようです。

9月15日(日)

今日は向井君が組合教会へ入会のため信仰告白をなすべき日なり。十時より共にゆく。何となく心地よかりき。

午後は市中を廻り歩きぬ。札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、しめやかなる恋の多くありそうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗う水は身に沁みて寒く口にふくめば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり。函館の如く市中を見下ろす所なければ市の広さなど解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧するばかり天広し。市の中央を流るる小川を創成川という。うれしき名なり札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり。

夜は小国君と共に北門新報社長村上祐氏を訪い、更にこの後同僚なるべき菅原南二君をとえり。帰宿は十一時を過ぎぬ。夜枕につきてより函館の空恋しうて、泣かむとせざるに涙流れぬ。

予は自分一個の室を持ちて後にあらざれば何事もなし得ざるならむ。出社は毎日午後二時より八時まで、十五円。

札幌2日目、啄木は札幌市内を散策して歩きます。雨の札幌を歩きながら、啄木は札幌の印象について「しめやかなる恋の多くありそうなる都なり」と残しています。アカシヤ並木やポプラ、創成川など、札幌には文学者である啄木の関心を引くものも多かったようで「札幌は詩人の住むべき地なり」とも記されています。札幌の歩いた幅の広い道は停車場通り(現在の札幌駅前通り)で、当時はアカシヤ並木が茂る札幌の象徴的な景観を持つ道でした。

向井君と一緒に出かけた「組合教会」は、札幌組合基督教会(現在の札幌北光教会)のことです。札幌北光教会は現在も大通西1丁目にあります。

9月16日(月)

予はこの日より北門新報社へ出社したり。毎日印刷部数六千、六頁の新聞にして目下有望の地位にありという。予の仕事は午後二時に始まり八時頃に終わる。

宿直室にて伊藤和光君と共に校正に従事するなり。和光君は顔色の悪き事世界一、垢だらけなる綿入一枚着て、其眼は死せる鮒の目の如く、声は力なきこと限りなし。これにて女郎買の話するなれば、滑稽とも気の毒とも云わむかたなし。彼は世の敗卒なり、戦って敗れたるにあらずして、戦わざるに先ず敗れたるものか。

札幌で啄木は「北門新報社」という新聞社の校正係として就職します。北門新報社の正確な立地は不明ですが、北4条西1丁目に社屋があったようです。

9月17日(火)

北門歌壇秋風記を書いて編集局に投ず。
夜、日本基督教会にゆきて演説をきく。髙橋卯之助氏の「失われたる者」路可伝の放蕩息子の話の研究にして少しく我が心を動かせりき。

ここに登場する「日本基督教会」も、やはり札幌北光教会のことでしょうか。

9月18日(水)

本朝紙面第一頁には予が秋風記をのせ、また北門歌壇を載せたり。歌壇は毎日継続すべし。函館なる橘智恵子女子ほか弥生の女教員宛にて手紙かけり。
夜、校正を和光君に頼み、向井小林諸君と市中を散歩せり。

この日、北門新報に啄木の随筆「秋風記」が掲載されています。「秋風記」は啄木による札幌の印象を文章に記したもので、明治末期の札幌の魅力が啄木の抒情的な表現で記録されています。
また、啄木は着任早々「北門歌壇」という表題で短歌の読者投稿欄を企画しました。

「函館なる橘智恵子女子」は啄木の意中の女性で、その実家は札幌郊外にありました。啄木に愛された女性・橘智恵子の実家には、今も啄木の歌を刻んだ碑が残されています。また、札幌郷土資料館にも彼女に関する資料が展示されています。

9月19日(木)

朝窓前の蓬生に雨しとしとと降りそそぎて心うら寂しく堪え難し。小樽なるせつ子及び山本の兄、京なる与謝野氏、旭川の砲兵連隊なる宮崎大四郎君へ手紙認めぬ。書して曰く、我が目下の問題は如何にして生活を安固にすべきかなり、また他なし。哀れ漂泊の児、家する知らぬ悲しさは今ひしひしとこの胸に迫る、と。貧しき校正子可なり。米なくして馬鈴薯を喰うも可なり

貧乏による生活苦は、常に啄木に付きまといます。

9月20日(金)

朝起き出れば、入札以来初めての快晴なり。程近き湯屋にゆきてふと新聞を手にすれば、綱島梁川氏の永眠を伝える記事あり。十一時となりて晴れたる空にわかにかき雲り、遠雷の響きさえして雨ふり出でぬ。
夜小国君より小樽日々へ乗替の件秘密相談あり。

札幌暮らしを始めて7日目、初めての快晴で、啄木は近所の銭湯まで朝湯へ入りに出かけています。もっとも、午前11時過ぎには雷を伴うような激しい雨が降り始めたようです。

それにしても、北門新報入社から一週間も経たぬうちに、小樽の新聞社への転職が持ちあがっているのは驚きですね。

9月21日(土)

八時四十分せつ子来る。京子の愛らしさ、モハヤ這い歩くようになれり。この六畳の室を当分借りる事にし、三四日中に道具など持ちて再び来る事とし、夕六時四十分小樽に帰りゆけり。

夜小国来り、向井君の室にて大いに論ず。小国の社会主義に関してなり。

小樽で暮らしている妻子が、この日初めて札幌の啄木宅を訪れます。一家は下宿屋の六畳間で生活することとして、近日中に正式に引っ越すことを決めますが、一家での札幌生活は実現しませんでした。なにしろ、小樽の新聞社への転職が内々で進められていたのですから。

9月22日(日)

並木君(日高なる大島君行方不明の旨記しあり)より手紙来れり、函館の恋しさ。

中学の英語の教師なる西村君来れり、相逢う事これで二度。

9月23日(月)

秋の日ホカホカと障子を染めて、虻の声閑かに、いと心地よき日なり。午前ひき篭りて宮崎君へ手紙書けり。事志と違わば十一月我と共に函館に帰れ、飢ゆるも死ぬも諸共という宮崎郁雨君は、げに世に稀なる人なり。

夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢えり。温厚にして丁寧、色青くして髭黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。

かつて小国君より話ありたる小樽日報社に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たること成れり。函館を去りてわずかに一旬、予はまたここに札幌を去らむとす。すべては自然の力なり。小国君は初め向井君より頼まれて予を北門新報社に紹介入社せしめたる人なり。今さらに予と共に小樽へゆかむとす。意気投合とはこの事なるべし。

この日、啄木は野口雨情と初めて会います。この時の様子については「札幌時代の石川啄木」という野口雨情の回想録で詳しく知ることができます。

また、小樽日報社への転職構想が、この日確定します。「すべては自然の力なり」とありますが、まさに啄木の生き様は風に吹かれるままでした。

9月24日(火・秋季皇霊祭)

朝小樽なるせつ子へ来札見合すべき電報を打てり。北門新報社における予の後任としては、西堀秋潮君の推薦にかかる新詩社社友園田愛緑君と内定したり。
この日より予が「梁川氏を弔う」の文北門に出ず、三回にて終わるはず。
午後向井君来る。夜、向井君の室にて大に宗教を論じたり虚無を論じたり。

9月25日(水)

午前小国君来る。
夜、野口君を訪い、さらに小国君を訪う。菅原来り合して大に談じ、一時帰る。

9月26日(木)

夢さむれば雨。心蕭々(しょうしょう)たり。

9月27日(金)

「綱島梁川氏を弔う」の文今日にて終わる。多少の反響ありたるものの如し。午前北門社にゆき、村上社長に逢いて退社のことを確定し、編集局に暇乞す。帰途野口君を訪えるに、小樽日報主筆たる岩泉江東に対し大に不満あるものの如し。

宿に入れば、西堀君園田君を伴い来りて待てり。園田君が五尺八寸の大兵、敦厚の相㒵(そうぼう)にして、その空知より持ち来れる林檎はいと味よかりき。

社の方より給料まだ出来ざれど、西堀君に立て替えてもらって小樽に向かうこととせり。朝来の雨遠雷の声を交えていやさらに降りつのりて、窓前の秋草蕭条(しょうじょう)たり。滞札わずかに十四日、別れむとする木立の都の雨は予をして感ぜしむること多し。午後四時十分諸友に送られて車を飛ばし、汽車に乗る。雨中の石狩平野は趣味殊に深し、銭函をすぎて千丈の崖下を走る。海を見て札幌を忘れぬ。

啄木、札幌最後の日も雨でした。夕方4時過ぎの汽車で啄木は小樽へと向かいます。一生住みたいと感じた札幌でしたが、小樽の海を見た時には、啄木の心の中に札幌はもうありませんでした。小樽での新しい生活に夢見ていたのです。

おわりに

啄木も書いているとおりわずか14日間という短い滞在期間でしたが、札幌の街は啄木の心に大きな印象を残したようです。日記を下敷きにして、後年「札幌」という小説を書くなど、札幌に対する啄木の想いは決して失われることはなかったのだと思います。

えぞ海鮮賞味
石川啄木「雪中行〜小樽より釧路まで」を読みながら札幌から旭川まで旅をした札幌旭川特急ぶらり旅 汽笛が鳴って汽車はまた動き出した。 札幌より彼方は自分の未だかつて足を入れた事のない所である。 ...
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こもり
札幌住み歴38年目。100%インドア派の文化系サラリーマンです。趣味はお約束の読書と音楽鑑賞。異次元のマイホーム主義を実践しています。
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