1984年2月3日(金)、札幌中島体育センター。
雪の降る札幌で、激動の80年代プロレス史を揺るがす大きな事件が発生しました。
長州力VS藤波辰巳のタイトルマッチに乱入した、「テロリスト・藤原喜明」の誕生です。
今回は、当時の雑誌をもとに、テロリスト誕生の瞬間を振り返ってみたいと思います。
2.3 雪の札幌で何が起こったのか?
ここに一冊のプロレス雑誌があります。
「週刊プロレス N.29(1984年2月21日号)」(ベースボール・マガジン社)。
表紙には、グアムのビーチで寛ぐ全日本プロレスの選手たちの写真が掲載されていて、とても和やかな雰囲気です。
しかし、表紙をめくると、最初のグラビアページにあるのは、降りしきる雪の中を裸で歩いている藤波辰巳の写真でした。
見出しは「2.3 雪の札幌で何が起こったのか?」「こんな会社では試合したくない…」
2月3日、WWFインター王者、藤波辰巳は悲しみと怒りのあまり、タイトルマッチを放棄して、体育館の外に出た。7千人の大観衆に背をむけて、この雪の中を、藤波はどこに行こうというのだろうか? しかも、藤波は裸のままである。頭と胸に長州の返り血を受けた藤波は、しんしんと降る雪の中を無言で歩いている。何かひとこと、言葉をかけると、今にも雪の上に泣きくずれそうだった。(「週刊プロレス NO.29」)
当時のプロレス雑誌って、こんなに叙情的で感傷的な記事を書いていたんですね。
まずは、そのことにびっくりです(笑)
それにしても、リング上の風景ではない写真、まして、会場の外の写真がトップページに来るなんて、この日の試合は、本当に極めて異例の試合だったんだなあということが、ひしひしと伝わってくる写真ですね。
事件、破壊された「長州・藤波」選の謎
ページを繰ると、顔面血まみれの長州の写真が大きく掲載されています。
右隅には、同じように顔面血まみれの藤原喜明の写真。
王者、藤波辰巳が雪の降る街へと消えたとき、雪はさらにしんしんと降り続いた。真っ白い透明な世界に、純な男、藤波の悲しみだけがあとに残った。藤波が体育館を去ったあと、聴衆も去った。今、日本マット界で最高の試合ができる屈指のレスラー2人がゴングが鳴る前に試合を放棄したのだった。結果は ” 試合不成立 ” という異常事態だった。完全に不祥事だった。(「週刊プロレス NO.29」)
この日、試合が不成立だったため、リング上の写真がほとんどないということが分かります。
数少ないリング上の写真は、「藤波はもっていきようのない怒りを審判部長の山本小鉄にまでぶつけた」というキャプションを付した、藤波が山本小鉄をボディスラムで投げつける瞬間の写真と、マイクを持ってリングに立つアニマル浜口と谷津嘉章の写真くらい。
アントニオ猪木まで「長州と藤波の不祥事に怒った猪木は試合後取材拒否をし、雪の中を裸で去っていた」とのキャプション付きで、なぜか裸で雪の中を歩く写真が掲載されています。
まるで、社会的な大事件が起こったかのような誌面に、当時、高校1年生(16歳)だった僕は、今にも発狂しそうなくらいに興奮した!ことを覚えています。
ぶち壊された「WWFインタナショナル・ヘビー級選手権」
ここで、当時の状況を解説しておきましょう。
この日、藤原喜明が乱入してぶち壊しにした試合は、チャンピオン・藤波辰巳VSチャレンジャー・長州力のWWFインタナショナル・ヘビー級選手権のタイトルマッチでした。
1982年10月8日(金)、「オレはかませ犬じゃない!」という有名な台詞で、スターレスラー・藤波辰巳に因縁をつけた長州力は、その後、事あるごとに藤波を目の敵にするようになり、二人の試合は「名勝負数え歌」として、当時の新日本プロレスの看板カードとなります。
アントニオ猪木の熟成した試合と違って、互いに感情を前面に出して戦う藤波・長州の試合は、勢いとスピード感に満ちたもので、時代劇を好む日本人の嗜好にぴったりとマッチしていたのだと思います。
(もちろん、当時はそんなこと、考えてもいませんでしたが)。
ジュニアヘビー級の時代から熱狂的な藤波ファンだった当時の僕は、とにかく長州力が憎くて憎くて仕方ありませんでした!(笑)
1983年4月3日、長州は藤波を破り、WWFインタ・チャンピオンとなります。
有名な「俺の人生にも一度くらい幸福なときがあってもいいだろう!」という歴史的な名台詞が飛び出したのは、このときのこと。
二人の抗争はその後も続き、いよいよいタイトルマッチで決着を付けるときが来た!
と思っていたのが、1984年2月3日、札幌中島体育センターの「WWFインタナショナル・ヘビー級選手権」でした。
実は、高校一年生(当時)の僕も、この夜の札幌中島体育センターに詰めかけた七千人の観客の一人だったのですが、藤波・長州のタイトルマッチというだけで、会場には異様な高揚感が充満していたような気がします。
ところが、長州の入場の際に何やらトラブルが発生したらしく、リングに上がったとき、長州は既に顔面血まみれの状態でした。
後になってみると、リングに向かう長州を藤原喜明が襲撃したということだったのですが、会場にいるほとんどの観客には、そんなことは分かりません。
とりあえず試合は始まったものの、血まみれの長州は試合をできるような状態ではなく、虚しく試合は不成立。
楽しみにしていたタイトルマッチが流れてしまったとあって、会場内には「金返せ!コール」が響き渡り、怒りが収まらないのは、藤波辰巳ではなくて観客の方だった、というくらいの異様なムードでした。
今にして思うと、藤波・長州というドル箱カードの決着戦が札幌で開催されるわけもなく、地方会場なんて、その後の展開へと続く布石のひとつにしか過ぎなかったのですが、あの頃の札幌の純情なプロレスファンには、そんなことは分かっていませんでしたから。
破壊された長州・藤波戦 ぶち壊したのはこの男だ!
ファンの大きな期待をぶち壊し、一夜にしてスターレスラーの座にのし上がったのが、長州を襲撃した藤原喜明です。
当時の藤原は、地味な前座レスラーの一人で、試合がテレビ放送されることもなく、会場へ行く熱心なファン以外には、ほとんど無名の状態でした。
長州襲撃事件のインパクトは、無名の前座レスラーが、トップスターの長州力を襲って血まみれにしたということだと思います。
「テロリスト」の称号を手にした藤原は、この後、UWFとの抗争の中で「職人レスラー」としての地位を確立、プロレス雑誌の中で「組長に訊け!」なる人生相談のコーナーを持つほどの人気レスラーとなります。
ちなみに「組長に訊け!」のタイトルは、芥川賞作家・開高健の人生相談「風に訊け」に因んだものだと思われます。
などというのは、その後の歴史の話であって、1984年2月の時点では「てめー、この野郎、大事な試合、ぶち壊しやがって! 何やらかしちゃってくれてるんだ!」という怒りが、藤原喜明に対する大勢の評価だったと思います。
札幌は地方会場の中でもそこそこ大切な会場だったので、割とビッグなカードが組み込まれるのですが、流れの中では「伏線的な役割」を持つことがほとんどなので、ロクな結果になりません(何度、裏切られたことか)。
残念ながら、それがプロレスというものなので、仕方のないことではあるのですが、、、
藤原、狂乱のテロ襲撃で長州大流血
新日本のプロレス史としては、非常にエポックメイキングな試合として位置付けられるので、この週の「週刊プロレス」には、ドラマチックな写真がたくさん掲載されています。
降りしきる雪の中を裸で歩く藤波の写真は、今でも大好きな写真ですが、小林邦昭に促されながら控え室へ戻る途中の長州が、リングに向って必死の形相で何かを叫んでいる写真も、歴史に残る一枚だと思います。
「ぶち壊されたタイトルマッチ」というキャッチフレーズが似合うというか、胸を打たれる写真です。
だけど、冷静に考えてみると、観客の多くは、このタイトルマッチを目当てにチケットを買っていたんだから、「金返せ!コール」も至極当然ですよね。
よりによって札幌でやらないでほしかったな(笑)
高校生には決して安い金額ではなかったのです、当時のプロレスの入場料というのは。
まとめ
ということで、以上、今回は、1984年・冬の中島体育センターから、台無しになったタイトルマッチの模様をお伝えしました。
藤波・長州のタイトルマッチはぶち壊しだったけど、「テロリスト・藤原喜明」が誕生したという、プロレス史的には重要な、だけど、観客の一人としては激おこな、という極めて複雑怪奇な試合(不成立だったので、試合さえなかったわけなんですが)。
でも、こういう「筋書きのないドラマ!」が、当時の新日本プロレス人気を支えていたことは、やっぱり事実なんですよね。
藤波対長州の抗争は、この後、藤原喜明も巻き込んで、1984年4月19日の蔵前国技館で行われた「正規軍対維新軍、5対5の勝ち抜き戦」へと突き進んでいきます。
すべては、この蔵前大会のための伏線だったんですね。
なんだよ、やっぱり札幌は捨て駒かよ、、、という札幌のプロレスファンの怨念が聞こえてきそうだけど、プロレスにあんなに熱中できた時代が懐かしい!