旧・札幌ピープル

札幌農学校の英語講師だった「有島武郎邸跡」の記念碑とレリーフ像

札幌農学校の英語講師だった「有島武郎邸跡」の記念碑とレリーフ像

有島武郎といえば、『カインの末裔』や『或る女』などの作品で知られる白樺派を代表する文豪の一人ですが、小説家になる前、有島は母校でもある札幌農学校(現在の北海道大学)で英語講師として働いていました。

札幌農学校の教員時代、結婚をして子どもをもうけた有島は、札幌で永住することを決意し、勤務先である札幌農学校の近くに住宅を新築します。

時代は流れ、既に有島邸はありませんが、かつて有島の邸宅があった場所には、今も記念碑が設置されて、札幌で有島が暮らしていた時代を伝えています。

札幌農学校の英語教師だった有島武郎

東京生まれの有島武郎は、学生時代を札幌で過ごした後、兵役や欧米留学を経て、1908年(明治41)年1月、母校である札幌農学校(当時は東北帝国大学農科大学)の英語講師として、再び札幌の人となります

有島武郎邸跡の記念碑がある北酒販本社ビル前庭のオープンスペース有島武郎邸跡の記念碑がある北酒販本社ビル前庭のオープンスペース

札幌到着当初、学生時代の親友である森本厚吉夫妻の住宅に居候した後、札幌農学校の寮へと入りますが、1909年(明治42年)に神尾安子と結婚して、上白石村2番地(現在の白石区菊水1条1丁目)の借家で暮らし始めます。

なお、菊水時代の住居跡については、別記事「有島武郎『小さき者へ』は札幌時代の回想から始まる名作だ」でも紹介しています。

https://sukidesu-sapporo.com/2019/02/15/chiisakimonohe/

北海道種類販売株式会社の本社ビル北海道種類販売株式会社の本社ビル

やがて、2人の子に恵まれた有島は、札幌で永住することを決意し、1913年(大正2年)、勤務先の札幌農学校の近くに豪華な住宅を新築します。

有島の邸宅があった場所(札幌市北区北12条西3丁目)には、今も「有島武郎邸跡」の記念碑が設置されていて、かつて有島武郎が札幌市民であった歴史を、今も語り続けています。

北酒販本社ビル前庭の公共空間にある有島武郎邸跡の記念碑

かつて有島武郎邸があった北12条西3丁目の一画には、現在、北海道酒類販売株式会社の本社ビルが建っていますが、このビルの前庭が公共空間(パブリックスペース)として整備されていて、そこに有島武郎邸跡の記念碑が設置されています。

有島武郎邸跡の記念碑。レリーフ製作は大通公園の石川啄木像と同じ坂胆道有島武郎邸跡の記念碑。レリーフ製作は大通公園の石川啄木像と同じ坂坦道

札幌にゆかりのある文豪の記憶が、民間企業の協力によって、このように美しく整備されるというのは、非常に素晴らしいことだと思います。

バブル時代以降、民間企業によるオープンスペースの設置は、街づくりの中でひとつの大きな流れになっていますが、ただのオープンスペースではなくて、有島武郎の歴史を物語る場所として整備されているところに、大きな意味があるような気がします。

有島武郎のレリーフは大通公園の石川啄木像と同じ坂坦道の作品

有島武郎邸跡の記念碑には、有島のレリーフ像が組み込まれています。

青葉が美しい木陰に有島武郎のレリーフがたたずんでいる青葉が美しい木陰に有島武郎のレリーフがたたずんでいる

レリーフは坂担道の製作によるもので、大通公園にある石川啄木のブロンズ像と同じ作者です。

記念碑は、有島武郎没後50年となる1993年(平成5年)に設置されました。

文豪・有島武郎は、大正二年(一九一三)八月から、安子夫人の療養のために東京に移転する大正三年(一九一四)十一月までの間、この家に住んだ。この間に三男・行三が生まれ、有島にとっては家庭的に幸福な時期であった。有島没後七十年に当る本年、自ら設計したといわれる有島の家がこの地にあったことを永く伝えるために、北酒販(株)のご厚志により場所の提供を受けて、有島邸跡を伝える碑を建立するものである。/建立 平成五年十月/北区歴史と文化の八十八選保存会/星座の会/北海道酒類販売株式会社/札幌市/制作 彫刻家 坂担道/碑文・題字の揮毫 北海道大学総長 廣重力

なお、碑文には、妻・安子の死後に有島が編集を担当した有島安子遺稿集『松むし』の一文が刻まれています。

「細君は中々いいものさ。君も早く結婚し給へ」と仰有るやうになりたい。/有島安子遺稿集『松むし』より。

新築わずか1年4か月で東京へ移転した有島武郎

新築住宅は、有島武郎本人によって設計されたと言われていますが、有島家は妻・安子の療養のために、札幌を離れて東京へと転居することになります。

「北区歴史と文化の八十八選」案内図の裏面に、当時の有島武郎邸の写真が飾られている「北区歴史と文化の八十八選」案内図の裏面に、当時の有島武郎邸の写真が飾られている

結局、有島一家がこの住宅で暮らしたのは、1913年(大正2)8月から1914年(大正3年)11月までの、わずか1年4か月でした。

有島は、この新しい住宅を大学へと寄付しますが、現金での寄付を望んだ大学側の意向を踏まえて、親友の森本厚吉がこの住宅を買い取る形となりました。

現在、この有島武郎邸は、札幌芸術の森に移築・保存されていて、一般公開することが可能です。

有島武郎自ら設計した大正モダンな洋館については、別の機会に改めてご紹介したいと思います。

北区歴史と文化の八十八選「有島武郎邸跡」

ところで、「有島武郎邸跡」は、記念碑が設置されるずっと以前に、「北区歴史と文化の八十八選」の「文学と学問の道」に指定されています。

「北区歴史と文化の八十八選」の案内マップ「北区歴史と文化の八十八選」の案内マップ

「北区歴史と文化の八十八選」は、札幌市の北区役所が指定する文化遺産のことです。

開拓の歴史と伝統を持つ北区内には、開拓碑や文学碑、古い建築物などの文化遺産が数多く存在しています。こうした貴重な文化遺産などを守り、さらに後世に伝えていくため、北区では、区内の文化遺産の中から88カ所を選定し、「北区歴史と文化の八十八選」として保存、活用しています。(札幌市北区)

「北区歴史と文化の八十八選」として設置されている「有島武郎邸跡」の解説版「北区歴史と文化の八十八選」として設置されている「有島武郎邸跡」の解説版

なかでも「文学と学問の道」は「札幌の都心部にひっそりと残された、古い洋風建築や記念碑。第1コースは北海道大学構内を中心に、最新技術を駆使して北海道を開拓した技術者たちの足跡がしのばれます」とされています。

「カインの末裔」「或る女」などの作品で知られる文豪・有島武郎(1878-1923)は札幌農学校を卒業後、外国留学を終えて明治41年(1909年)、再び札幌の地を踏む。母校であった北大で英語を教えるかたわら本格的な文筆活動を開始した。この家は、大正2年(1913年)8月、札幌永住を決意して新築したもので、大正3年(1913年)11月に妻・安子の病気療養のためこの地を去るまで過ごした。マンサード屋根を持った洋風の家は有島自身の設計といわれ、ここはその家があった場所である。後年、この家は、森雅之(有島の長男行光)主演の映画「白痴」(監督黒澤昭。昭和26年)のロケにも使用され、現在は、札幌芸術の森に移築・保存されている。碑文は、安子夫人の死後、有島がまとめた有島安子遺稿集『松むし』から取った日記の一節である。有島は、あるとき、「細君というものはこんなにいいものならなぜもっと貰わなかったと君は思ったかい。」と友人に尋ねられ、「そりゃいい事もあり悪い事もありさ」と答えて笑った。これを聞いていた安子夫人は恥ずかしさと悲しさで泣きたくなり、「細君とはなかなかいいものさ。早く結婚したまえ」と夫に言われるような妻になろうと思ったという。

解説板には「有島武郎と長男・行光、次男・敏行(大正3年1月13日)」や「安子夫人」の写真もプリントされています。

まとめ

札幌にある有島武郎邸跡の記念碑は、北酒販本社ビル前庭のオープンスペースにある。

本当の意味で、札幌の有島武郎邸はただひとつ(菊水の家は借家だった)。

当時の住宅は、札幌芸術の森で保存・公開されている。

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kels
札幌住み歴38年目。「楽しむ」と「整える」をテーマに、札幌ライフを満喫しています。妻と娘と三人暮らし。好きな言葉は「分相応」。