旧・札幌ピープル

札幌出身の小説家・船山馨生誕地の記念碑は南大通西8丁目にある

札幌出身の小説家・船山馨生誕地の記念碑は南大通西8丁目にある

札幌の街を歩いていると、思わぬところで文学碑と出会うことがあります。

例えば、大通西8丁目にある船山馨の生誕地とか。

今回は、札幌出身の小説家・船山馨が生まれた街をご紹介したいと思います。

船山馨は札幌西高卒業の小説家

船山馨は、1914年(大正3年)3月、札幌市の大通西8丁目に生まれました。

第一三共のビルの前にある船山馨の生誕地の記念碑第一三共のビルの前にある船山馨の生誕地の記念碑

船山馨の出生時、父はまだ東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の学生で、船山は母方の姓を名乗って、母のもとで育てられました。

札幌第二中学校(二中、現在の札幌西高校)卒業後、早稲田高等学院や明治大学予科を中退した後、北海タイムス(現在の北海道新聞と合併)の新聞記者となります。

東京で知り合った椎名麟三らと一緒に文学活動を開始、戦後はいわゆる「第一次戦後派」を代表する作家として活躍しました。

北海道開拓をテーマとした歴史小説『石狩平野』はベストセラーにもなった代表作品です。

太宰治自殺後の新聞連載小説を担当

朝日新聞に『グッドバイ』連載中の太宰治が自死したとき、朝日新聞の新聞連載小説の枠を引き継いだのが、船山馨でした。

記念碑は街路樹に挟まれていて、向こう側には大通公園が広がる記念碑は街路樹に挟まれていて、向こう側には大通公園が広がる

太宰の突然の死を受けて、朝日新聞は急きょ船山馨に連載小説の原稿を依頼、断り切れなかった船山は、短期間のうちに必死に原稿を書き上げますが、このとき、ヒロポンを多量に摂取したことがきっかけとなって、ヒロポン中毒(覚せい剤依存症)となってしまいます。

戦後文壇では、ヒロポンを始めとする覚せい剤の常用が、半ば流行のようになっていましたが、この依存症が原因となって、船山はまともな作家生活から遠ざかってしまうことになるのです。

芥川賞候補作にもなった北国物語は札幌が舞台

船山馨といえば『石狩平野』や『お登勢』のように、北海道開拓史にテーマを取った歴史小説が有名ですが、昭和初期の札幌の街を舞台にした青春小説も非常に趣きがあります。

2本の街路樹に挟まれて立つ船山馨生誕地の文学碑2本の街路樹に挟まれて立つ船山馨生誕地の文学碑

その代表作品とも言える小説が、芥川賞候補作ともなった『北国物語』です。

東京の大学を卒業して、札幌の新聞社に就職した青年記者を主人公とする青春小説ですが、サスペンス的な要素も織り込ませながら、当時の札幌の街並みが美しく描かれています。

『北国物語』を読むと、この小説は札幌出身の人間でなければ書くことのできない、本当の意味で札幌の小説だと感じてしまうのです。

なお、船山馨の『北国物語』については、別記事「船山馨「北国物語」は昭和初期の札幌が舞台の青春恋愛ミステリー小説」で詳しく紹介しているので、併せてご覧ください。

https://sukidesu-sapporo.com/2019/12/28/kitaguni-monogatari/

船山馨の生誕地は南大通西8丁目

さて、その船山馨の生まれた場所には、今も記念碑が設置されています。

長い歴史を感じさせる船山馨の文学碑長い歴史を感じさせる船山馨の文学碑

場所は、札幌市大通西8丁目。

大通公園の南側の道路を西に向かって走って行くと、大通公園に面して第一三共株式会社札幌支店の大きなビルが現れますが、このビルの東向き正面に立っているのが、船山馨生誕地の記念碑です。

記念碑は、第一三共によって美しいオープンスペースとして整備されていて、記念碑を挟み込むように美しい街路樹が植えられています。

最近は、文化的オブジェが民間企業のオープンスペースに設置される例も少なくないようですが、札幌出身の作家の文学碑が、このように美しく整備されていることは、とても素晴らしいことだと思います。

かつては街はずれだった船山馨の生誕地

ところで、大通公園沿いに生まれた家があるなんて、すごい場所で暮らしていたんだなあと思うかもしれませんが、船山馨の書いた『北国物語』などを読むと、大正から昭和初期にかけて、この辺りは既に街はずれとも呼ぶべき雰囲気で、船山馨の暮らした家は、むしろ貧しくて苦しい生活を強いられていたと言います。

大正時代に生まれた船山馨の生誕地にはガラスで造られた現代的なビルが建っている大正時代に生まれた船山馨の生誕地にはガラスで造られた現代的なビルが建っている

むかし、私は札幌の街辻で、唐黍を売る祖母の手伝いをしていたことがある。まだ小学校へゆく前だから、大正8年か9年頃のことである。(略)当時、四、五人の下宿人を置いて、それを祖母ひとりで切り廻していたので、賄いだけでも忙しかったが、毎日街辻へ出る直前に、必ず荷車をひいて山鼻の奥の農家まで、もぎたての黍を仕入れに行った。(船山馨『幼年期の味』)

石川啄木の短歌にもなっている札幌のトウモロコシ売りを、幼少期の船山馨も経験していたわけです。

そのころの札幌は、もう電燈のない家など稀らしかったが、私の家はながいことランプだった。電燈料が払えなくて、消されていたのかもしれない。だから、毎朝ランプの火屋(ほや)磨きが、私の仕事であった。(船山馨『幼年期の味』)

当時、船山馨の家は、祖母が営む素人下宿屋で、母は五番館へ働きに出ていました。

「下宿といってもぼろ家なので、泊り客もみんな貧しく、それぞれに悩みや事情のある人たちばかり」だったと、随筆『幼年期の味』の中で、船山馨は回想しています。

つまり、裕福だったから札幌の中心部で暮らしていたということでは、決してなかったということなんでしょうね。

小説家 船山馨生誕地の説明板

船山馨生誕地の記念碑には、次のような説明があります。

小説家・船山馨の生誕地の説明板小説家・船山馨の生誕地の説明板

小説家 船山馨生誕地
大正3年(1914年)3月31日に南大通西8丁目の東側一角で生まれ、幼・小・青年期を詩情豊かな札幌の街で過ごした。戦争中にこの地を舞台にした『北国物語』など抒情味をたたえた作品によって文学的出発を告げ、敗戦直後は戦後派作家として活躍し、やがて札幌の歴史と人間愛を壮大に描いた『石狩平野』などの豊潤な長編を世に問い、国民的歴史ロマン作家の地位を確立した。昭和56年8月5日東京で没す。

没後は毎年次々と現れる新しい作家群に埋もれてしまったようなところもありますが、純粋な札幌出身作家としての船山馨の魅力は、今なお決して色褪せてはいないと思うのです。

まずは、ぜひ、この船山馨生誕地の文学碑を訪ねてみてくださいね。

まとめ

船山馨は札幌出身の小説家で、第一次戦後派の一人として活躍。

生誕地の記念碑は、南大通西8丁目、第一三共ビルの前で街路樹に挟まれている。

大通公園の文学散歩コースには欠かせない文学碑だ。

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kels
札幌住み歴38年目。「楽しむ」と「整える」をテーマに、札幌ライフを満喫しています。妻と娘と三人暮らし。好きな言葉は「分相応」。