旧・札幌ピープル

森田たま「硝子、夢のかけら 廃工場から拾った夢」札幌駅裏の今を歩く

札幌駅北口

思い出のふるさと

硝子、夢のかけら昭和28年の新聞コラム

古い新聞を読んでいるとき、森田たまの短い随筆を見つけました。それは「思い出のふるさと」というタイトルのシリーズで、北海道にゆかりのある人たちが自分の思い出を綴るといった企画らしく、森田たまは連載10回目に登場している。1953年(昭和28年)のものです。

今はどうなっているでしょう。札幌の北七条西二丁目あたりに、硝子工場がありました。五十数年昔のことで、そうしてもうそのとき、硝子工場は空き家でした。札幌という町が初めて作られたとき、内地からいろいろな人がやってきて、山鼻の方で機(ハタ)を織ったり、新川の流れで陶器を焼いたりしたと聞いていますが、硝子もその一つだったのでしょう。粉雪の降る寒気の激しい土地で、陶器や機織りがたちゆかなかったと同様に、硝子工場も廃業の憂き目にあったのでしょう。「硝子、夢のかけら 廃工場から拾った夢」森田たま(1953年)北海道新聞掲載

札幌駅裏にあった硝子工場

1953年の時点で50数年前の記憶というのだから、1890年代の札幌の街のことでしょう。北7条西2丁目というと、札幌駅の裏辺りのことで、もちろん、その頃は「札幌駅北口」などという名前はありません。今のように開発が進んでいるわけでもなく、ガラス工場があったとしてもおかしくないかも。

明治札幌の地図明治時代の新聞

明治から大正時代にかけての地図をいくつか拾ってみたけれど、ガラス工場が記されているものは見つかりませんでした。製麻会社や麦酒工場は掲載されているので、硝子工場はそれほど大きな規模のものではなかったのかもしれないですね。

1909年(明治42年)に発行された「最近之札幌」という本の中では、ガラス工場がひとつだけ紹介されています。河内硝子工場という名前の工場で、住所は北7条西4丁目と、森田たまの回想に近い。もっとも、1909年に活動しているということは、「50数年前に廃業していた」という森田たまの記憶とは食い違いが生じてしまいます。

河内硝子店明治42年の「最近之札幌」より

もしかすると、かつて札幌駅裏にはガラス工場がいくつもあって、森田たまはそのうちの空き家となった硝子工場のことだけを取り上げたのかもしれません。あるいは、50数年前という記述の方に思い違いがあるのかもしれません。いずれにしても、これ以上追及しても仕方がないので、本を調べるのはいい加減にして札幌駅裏まで出かけてみました(適当すぎ)。

現在の札幌駅裏を歩く

北7条西2丁目現在の北7条西2丁目

実際に行ってみると、北7条西2丁目というのは、札幌駅北口の目の前にあたる場所で、北海道銀行や北海道労働金庫などがあります。もちろん、硝子工場を連想させるようなものは何もありません。なにしろ、森田たまの記憶の中の時代から100年以上の時間が経過しているんですから。廃工場なんてあったらびっくりですよね。

北7条西4丁目現在の北7条西4丁目

河内硝子工場のあったという西4丁目まで足を延ばしてみると、ホテルルートインやカラオケ歌屋などが建ち並んでいる。そう言えば、札幌駅北口周辺をこうやって歩くことは久し振りです。札幌市民だけど、何か特別の用事でもなければ、わざわざ駅の北側にまで出てくる理由がないんですよね。

私たち小学校に上がらない子どもは、毎日そこへ硝子のかけらを拾いに行ったのです。かけらは工場の周り中に散乱していました。透明なコップのかけらをはじめとして、紅いろ、緑いろ、紫いろ、さまざまな色硝子が、虹のかけらのように散っているのです。それは雪の北海道へはるばるやってきて、珍しい硝子をつくろうとした人の破れた夢のかけらでした。子どもはせっせとその破れた夢を拾い集め、子どもなりに新しい虹の夢を作りました。「硝子、夢のかけら 廃工場から拾った夢」森田たま(1953年)北海道新聞掲載

子どもたちがガラス職人の夢のかけらを拾い集めていた時代。「今、あそこはどうなっているでしょう」と、作者は最後につぶやいている。思い出の中には、作者自身の夢のかけらが漂っているのでしょう。

あれから100年が過ぎ、僕は今、作者の思い出のかけらを探し出そうするかのように、雪の街を歩き続けているのです。

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kels
札幌住み歴38年目。「楽しむ」と「整える」をテーマに、札幌ライフを満喫しています。妻と娘と三人暮らし。好きな言葉は「分相応」。