旧・札幌ピープル

「挽歌」の作者・原田康子さんが暮らした電車通りの町を歩いてみた

原田康子さんが暮らした電車通りの町

今日10月20日は、札幌に長く在住した女流作家・原田康子さんの命日です。

没後10年の節目に原田康子さんが暮らした街を歩きながら、札幌を代表する偉大な作家を偲んでみました。

作家の暮らした街って、どんな街だったんでしょうか。

原田康子さんとは

原田康子さんは1928年(昭和3年)、東京中野に生まれました。

1930年(昭和5年)、一家は北海道釧路市川上町に移住、家は製材所を営んでいたそうです。

1945年(昭和20年)に釧路市立高等女学校(現在の北海道釧路江南高等学校)を卒業後、東北海道新聞社の記者として活躍。

その一方で「北方文芸」という釧路地方の文芸同人誌に参加、「北方文芸」廃刊後は「北海文学」の創刊に携わります。

1951年(昭和26年)、北海道新聞釧路支局の記者だった佐々木喜男と結婚。

1953年(昭和28年)に東北海道新聞社を退社後は同人活動に専念、1955年(昭和30年)「挽歌」の連載を開始します。

釧路地方の同人雑誌に連載された「挽歌」は大きな反響を呼んで、1956年(昭和31年)に東都書房から単行本が出版され、たちまち全国的な支持を得て、1957年度(昭和32年度)のベストセラー第1位を獲得しました。

created by Rinker
¥781
(2024/04/28 21:23:57時点 Amazon調べ-詳細)

1957年(昭和32年)「挽歌」は第8回女流文学賞を受賞、映画化も果たします

さらに、1961年(昭和36年)にはテレビドラマとして大ヒットを記録するなど、日本全国に「挽歌ブーム」を巻き起こしました

「挽歌」はその後1966年(昭和41年)と1971年(昭和46年)にもテレビドラマとして放映されており、作者である原田康子さんは一躍日本の寵児となりました。

まさに、北海道が生んだ女流文学の大スターですね。

なお、原田康子さんの「挽歌」については、別記事「原田康子「挽歌」円山公園まで市電が走っていた頃」も併せてご覧ください。

https://sukidesu-sapporo.com/2019/01/26/banka/

原田康子さんが暮らした街

釧路時代に「挽歌」を発表した原田康子さんは、1959年(昭和34年)札幌市宮の森に移住、その後、1960年(昭和35年)に札幌市中央区の電車通り沿いの町に一軒家を構えた後は、2009年(平成21年)に逝去するまで、この街で暮らし続けました。

電車通りに転居した頃に書かれた随筆「うつりかわり」が、角川文庫「北国抄」(1976年)に収録されています。

created by Rinker
¥528
(2024/04/28 21:23:57時点 楽天市場調べ-詳細)

この随筆は「月刊さっぽろ」(1968年11月号)に掲載されたもので、昭和40年代初期の西線地区の様子が克明に記録されています。

今回はこの随筆を参考にしながら、原田康子さんが暮らした電車通りの街を歩いてみました。

随筆が書かれた頃から60年近くが経ち、街はどのように変わっているのでしょうか。

私は久しぶりに買い物籠をぶら下げて、電車通りの市場まで買い出しに行った。なるほど、角は喫茶店にかわっていた。ゴムの木などを窓辺に並べ、戸口の日覆いに秋の日が落ちていて、小ぎれいなかわいい店だ。

電車通り沿い「八條市場」跡には畠山商店がある電車通り沿い「八條市場」跡には畠山商店がある

「電車通りの市場」とあるのは、電車通りを越えて西側にあった「八條市場」のことかもしれませんが、現在は市場らしきものはありません。

人気の「畠山商店」は本日お休みでした。

近所に喫茶店ができたのは、なにもはじめてのことではない。銀行の支店が店開きをしたとき、その地下に喫茶店ができた。銀行のはす向かいにも小さな喫茶店がある。そしてこんどのと、これで三軒目である。一町そこらのあいだに三軒もの喫茶店があっては、商売が成り立つのだろうかと考えるのは、余計な心配というものだろう。町のようすそのものがかわってきた。大きな建物がふえてきた。

シャモニー跡地には焼肉屋がオープンしたシャモニー跡地には焼肉屋がオープンした

「銀行のはす向かい」とあるのは、この間までお菓子屋「シャモニー」があった場所のことですが、昔は「シャモニー」の地階に喫茶店が入っていたようです(原田康子さんが書いている喫茶店と同じものかどうかは不明)。

2019年3月に閉店した「シャモニー」跡地は、2019年7月、リノベーションによって「YAKINIKU BISTRO 石鎚」という名前の焼き肉屋さんに生まれ変わりました。

ビルの名前が「西線ロールビル」に変更されたのもいいですね(「西線ロール」はシャモニーの名物だったロールケーキの商品名)。

銀行はビルの一階を占めている。九条通りと電車通りとがまじわる角である。銀行が開店して間もなく、その隣にさらに大きいビルが建った。

札幌銀行のあった美松ビル跡地は駐車場のまま札幌銀行のあった美松ビル跡地は駐車場のまま

南9条通りと電車通りが交差する角には北洋銀行(旧札幌銀行)の入る美松ビルがありましたが、老朽化のために解体された後は駐車場になっています。

随筆が書かれた当時、札幌銀行は「北海道相互銀行」という名前の相互銀行でした。

それから銀行の向かいにはタクシー協会とやらができた。高い建物ではないけれど、前庭をひろく取ってあり、大きな庭石などを配して、お天気のよい日は庭石はまぶしく輝き、なかなか立派である。

今も残るタクシー会館今も残るタクシー会館

電車通りに面して「北海道ハイヤー会館」が建っていました。

前庭の駐車場は確かに広いですが、庭と呼ぶにはちょっと違和感があります。

どこかの時代で庭を削って駐車場にしたのかもしれませんね。

立派な庭木や庭石は正面玄関前に残されていました。

これらの建物ができたのは、この二、三年のあいだのことである。喫茶店ができたのも二、三年のあいだのことである。私がいまの住所に越してきたころは、目立つほどの建物はなかった。大体が住宅街なのである。

電車通りの風景。大きなマンションも建っている電車通りの風景。大きなマンションも建っている

西線の沿線は、戦前は郊外ではなかったのだろうか。近所の表具屋さんの話によると、私の家は戦争中の建て売り住宅なのだそうである。いわれてみるとその通りで、周囲には似たような造りの家が多い。いささか古びた平屋で、敷地もほぼ同じ程度の広さである。

古い家が残る西線の住宅街古い家が残る西線の住宅街

戦争中の建て売り住宅はかなり珍しくなりましたが、西線山鼻の住宅街の中にはまだ現存しているものがあったような気がします。

西線に越してきたときは、正直ほっとした。電停は近いし、西屯田通りも近い。西屯田通りは私の好きな通りである。いってみれば、下町の商店街で、せまい通りをはさんで、店舗がぎっしり並んでいる。私に界隈の話を教えてくれた表具屋さんも、ここに店を構えている。
銭湯もあるし、医院もあり、郵便局もある

「美好湯」「成瀬内科医院」「南6条郵便局」「山口表具店」…

昔の地図を見ると、原田さんが歩いた西屯田通り商店街は、南6条から7条にかけてだったみたいです。

西屯田通商店街のお店も少なくなった西屯田通商店街のお店も少なくなった

原田さんが大好きだったという西屯田通り商店街にもお店は少なくなりました。大きなパチンコ店ができたりしているのを見ると、まさしく時代の移り変わりを感じますね。

古い住所表示には木村産婦人科医院の名前があった古い住所表示には木村産婦人科医院の名前があった

街の片隅で見つけた古い住所表示には「木村産婦人科」の広告がありましたが、付近に病院は残っていないようです。

気軽に買い物のできる雰囲気が嬉しくて、移ってきた当初、私はよく西屯田に出かけた。サルビヤの花を買ってきたり、甘いものは苦手なのに饅頭を買ってきたりした。饅頭屋の店先には「オコワあり」などと貼紙がしてあって、白い湯気がいつも蒸籠からあがっていた。

饅頭屋さんが残っていたら何か買おうかなと考えていたのですが、それらしいお店は発見できませんでした(笑)

電車通りには商店は少なかった。銀行の建った角は自転車屋だった。電気屋が並んでいた。薬屋やお米屋さんなどが続き、タクシーの小さなガレージもあった。それらの店はいずれもくろずみ、年老いた表情をしていた。

森彦系列のマリピエール森彦系列のマリピエール

南9条通りに面して森彦系列のお菓子屋さん「マリピエール」があります。

森彦本店やアトリエ・モリヒコで提供している洋菓子はここで買うことができるので、管理人もよく利用しています。

その二つの通りにはさまれながら、環境はいたって静かだった。電車の響きも眠気を誘うようだった。車もあまり通らなかった。夜ふけて、ひとしきり車の音が耳につく時刻があるが、それは亭主族がススキノあたりから御帰還になる時間なのである。

原田さんが暮らした西線住宅街の風景原田さんが暮らした西線住宅街の風景

窓からは藻岩山が見えた。藻岩が雲に包まれると雨になると、札幌に古くから住んでいる人に聞かされたが、私は朝夕居間のガラス戸の前に立って、見るともなく藻岩に目をあげたものである。藻岩を見ることができなくなったのは、いつころからであったろうか。四、五年前のことかもしれない。私の家のはす向かいに会社ができたのである。三階建てのさほど大きな建物ではないが、その建物は、朝夕親しんでいた藻岩山を私の目からさえぎってしまった。

畠山商店の裏の通りまで歩くと藻岩山が見えた畠山商店の裏の通りまで歩くと藻岩山が見えた

近所のおもむきがかわりはじめたのはそのころからである。アパートがふえた。どこやらの民間会社の堂々とした鉄筋アパートが建ち、マンションと称する小規模のアパートも多くなった。水商売の美人が住むのかもしれない。市場に買い物に行くと、顔見知りのバーのマダムに肩をたたかれたりするのである。

かつてアパートだった建物かつてアパートだった建物

一帯にはかつて集合住宅だったと思われる建物がいくつか残っていました。

昭和のアパートってすごく良い雰囲気を漂わせています。

静かな通りには車がふえた。馴れっこになったのか、車の音は苦にならないが、おもてに出てみると、電車通りから私の家の前までずっと車が駐車していることはしばしばである。おそらく排気ガスのせいだろう。庭のトドマツは下枝が枯れてきた。

南8条チビッコ公園南8条チビッコ公園

そしてビルが建った。喫茶店が三軒もできた。アパートの住民も、ビルではたらく人たちも、喫茶店を利用するというわけである。札幌の街そのものが大きくなったのだから、近隣の変化は当然だろう。自転車屋さんはなくなった。電気屋もタクシー会社もなくなり、残っている店は、よそおいを改めて電車通りの町筋は小ぎれいになった。

かつて「奥芝商店」だった建物は別のスープカレー屋さんにかつて「奥芝商店」だった建物は別のスープカレー屋さんに

かつて「奥芝商店」だった古民家には別のスープカレー屋さん(カフェ?)が入っていました。

ここの「奥芝商店」にはずいぶん通ったものですが(笑)

西線はまだまだ住みよい区域である。界隈の移りかわりを感じるのも、ここに住んで長くなった証拠であり、長くなれば愛着をおぼえるのが人情と言いうものだろう。ここに住みついて十年近くになる。

原田さんの住宅前の中小路原田さんの住宅前の中小路

まとめ

以上、作家・原田康子さんの随筆を読みながら、かつて原田さんが暮らした街を実際に歩いてみました。

全体の感想としては、ずいぶん空き地や駐車場が多いなあということです。

人口減少時代で人が減っているんだから、当たり前と言えば当たり前ですが、1960年代には発展の移り変わりを見せていた街が、2010年代には衰退の移り変わりを見せているなんて、ちょっと不思議な感じがします。

原田さんが亡くなって早10年、良くも悪くも札幌の街は今も変わり続けているようです。

created by Rinker
¥359
(2024/04/28 21:23:58時点 Amazon調べ-詳細)

ABOUT ME
kels
札幌住み歴38年目。「楽しむ」と「整える」をテーマに、札幌ライフを満喫しています。妻と娘と三人暮らし。好きな言葉は「分相応」。