札幌出身の小説家・島木健作も、銭函まで海水浴へ行った。
札幌から五里の海岸に銭函というさびれた漁村がある。昔鉄道のなかった頃は大漁つづきで、銭函の名はそこから来たが、鉄道がかかってからすっかりとれなくなったものという。木のきれはしや、真黒なゴミなどのうちよせる汚い海岸だが、夏には札幌の人たちの海水浴場になる。(島木健作「忘れえぬ風景」)
島木健作の実家は、南1条西10丁目(現在も「生誕地跡の碑」がある)にあったから、ここから銭函海岸までは、約16キロメートル。
この道のりを、若き島木健作は、歩いて移動していたらしい。
私は夜暗いうちから五里の道をあるいて行き、人気のないあけがたの静かな海をわがもの顔にふるまうのが好きであった。人が多く来てからは、浴場区域外のところへ行き、なぎさに火をたいた。(島木健作「忘れえぬ風景」)
札幌中心部から銭函まで歩いていくというのは、現代だったら想像さえもできない距離感である。
なにしろ、自動車で走っても30分以上はかかる。
徒歩移動だったら3時間半くらいは要するのではないだろうか。
夏の暗いうちということは、遅くとも午前3時には家を出なければならない。
もしかすると、午前2時過ぎに家を出たこともあっただろうか。
銭函海岸に着くのは午前6時である。
人のいない海で、健作青年は「わがもの顔」に泳いだ。
まさに、青春のエネルギーを小樽の海に放出していたのだろう。
1925年(大正14年)に東北帝国大学へ入学して仙台へ行く前の話だから、大正時代の思い出だったということになる。
札幌に生まれ、鎌倉で死んだ島木健作
1903年(明治36年)、札幌市内に生まれた島木健作(本名・朝倉菊雄)は、西創成小学校、札幌付属師範学校、北海中学校などで学んだ。
貧困家庭で苦労しており、西創成小学校から札幌付属師範学校へ転校するも、高等小学校を一年で中退、北海道拓殖銀行の給仕をしていたこともある。
東京本郷の兄の家(古本屋)を経て、1937年(昭和12年)以降は鎌倉へ移り住み、鎌倉文士の一人として作家活動に勤しんだ。
終戦のわずか2日後(1945/08/17)に病死したときも、島木健作の亡骸を葬ったのは、川端康成や小林秀雄、高見順、中山義秀、久米正、里見弴などの鎌倉文士仲間だった。
葬儀で弔辞を読んだのは川端康成である。
生前新潮社に原稿が渡してあった島木君の遺作集は「出発まで」という書名で、私は島木君から題簽を書くように頼まれていた。島木君は日本の敗戦をも自分の過去をも「出発まで」とすることが出来る、そういう人だったかもしれない。(川端康成「追悼文」)
鎌倉の海を見ながら、島木健作は銭函の海を思い出していただろうか。
享年41歳。
札幌で生まれた島木健作の墓は、今も鎌倉にある。
